新年に思ったこと

電子書籍のkindleをベランダに出て寒い寒い・・・と夜風に当たり少し読んでるうちに12:58、59、00:00。

年が明けたらしい。

2022年だ。

除夜の鐘はゴ〜ン、ゴ〜ンと明けてもまだ鳴り続く。

40年以上、今まで生きてきて何故気付かなかったのだろうか…

ずっとここに住んでいた訳じゃないけれど、大半を過ごしてきたはずなのに。恥ずかしかった。

また、2022年へと変わるその瞬間にベランダから見えたのは走る個人タクシーの車、空いていても走る電車、車や配送のトラック。

世の中は特に変わっていないようにも見える。自分自身も特に変わっていない。そりゃそうだ。

そうそう、話は(よく)変わるが。

今までずっと今年こそはやる!なんて新年に決意と期待を密かにしていたのだけれど、今年は特に何も思い浮かばない。

とりあえず新年前から続けてきた事をただ変わらずやるか…な。

半分諦めてしまったのだろうか。

いや、だいたい新年に抱いた決意なんてのはろくなもんじゃない。長く続く訳がない。

たった40年だけど生きてきてこれだけは自分にとって本当だった。

物事を気分一新して新年がこれとない大事なタイミングではあるんだけどね。

あくまでも、きっかけとしてはだ。

結局、そんな安い決意なんていつからでもいいんだよなぁ、と今では思う。

『今でしょ!』ってあの言葉が一番強力だなぁと。

 

さて、、自分がお参りに行く気分になるのはいつだろう?

い、今でしょ…(´∀`;)〈サムイシ人多杉プルプル…

どーせお参りしても、

今年(2022年)は〜したいです!

なりたいです!

神様仏様お願いします!

とか自分のことばかり考えているやっすいお願い事をしに行く人間なんだよなぁ。

そんなことをしに行くなら時間の無駄かと。もうやめたほうがいいかと。

そんな人は僕と同じで何も叶わないはずだから。

ただし、外に出かけて雰囲気を味わいたい。

その一体感や瞬間を誰かと楽しみに行きたい。共有したい!

空気感を体感したい。好きだ。というならば話は別だ。

ぜひ行くべきだ!

自分はそうじゃない人間だったから、単に願い事をしに行ってた。

そりゃ楽しめないわ人混み苦手だわで最悪である。神様仏様も(自分自身の)願い事だけをしにくる人間ってのはさぞ迷惑だったろうなぁ…

あれもこれも生きてきて神仏に頼ってみて願っても駄目だった。だから随分行ってなかったっけ。

さて、何となく気付いてた自分への違和感。その気持ちが何なのかがずっと分からなくて腑に落ちなかったんだけど、今はようやく納得しつつある。

そーじゃなかったのか!と。

例えば、神様仏様2021年の感謝と、今年の今日、今ここに来られたことを感謝します。ありがとうございます。

ぐらい言うてみよーかな。

これがたどり着いた答え。

【他の人のことを考える余裕】という視点が自分自身になきゃ駄目なんだということ。

誰かのことを願ったりね。

 

物を捨て減らすと小さな事に気づく余裕が出来ていくのは確かだ。それが普通のことで小さな幸せだったとしても、誰かから馬鹿にされたとしてもだ。

物を捨てるは物を捨てるでは終わらない。

自分自身や誰かにとって大切な何かを選び抜く力、

これこそが正体だ。

ありとあらゆる物事や人、思考や取捨選択し決断する力、そして良くも悪くも生じた結果とその自分自身が負う責任感。

それは感情さえも時には選び、今何をすべきかという唯一無二の目的を選び、無数の誘惑を断っていく。

何かを手放しなさい。

選び抜く中で要らない物を買ったのは誰か?

自ら苦労して手に入れたのか、誰かに買ってもらったのか?

あなたのことを思い買った人は誰だったのか?

作った人はどんな思いだったのか?

届けてくれた人もそうだ。

同じように後悔した人が言うので誰かに聞かせることは出来なくてもせめて届いてほしい。

1人でもいい。

今と違う日々を過ごしたい、より良くしたい。

ならば、過去の意味を変える未来と相応しい代償が必要です。

あなたの差し出せる代償は何ですか?

だから(簡単に出来る)不要な物から手放しなさい、

代償を払い、今から出来る新しい小さなことから始めなさい。

捨てる、残った物から気付く、気付かされる。そんなことの裏の意味にはこんな良いこともある。

決して代償ばかりではないのじゃぞ。